夏の作文その1『東京』

とっかかり:東京という概念

東京には色々な人がいます。東京で生まれ育った人,育つ途中で東京に来た人,育ってから東京に来た人,一時的に滞在しているだけの人,そして出ていく人。僕は「東京で生まれ育った人」に分類されることになるはずです。

このカテゴリーの人間は,おそらく「東京」と聞いても特段のイメージを想起することはありません。あるいは東京駅,あるいは東京都庁のことをイメージするかもしれませんが,東京に暮らしていない人や大学進学や就職を機に東京に出てきた人の持つ「東京」というイメージを共有できていないという確信はあります。

僕自身が東京というふわっとした存在を認識したのは中学に入学した直後でした。中学受験のやらかしにより千葉県,それも千葉市の中学校に片道100分かけて通うことになってしまったのです。最寄り駅駅前の地方都市感あふれる構造やそもそも異様に長い通学時間は否が応でも僕に東京という存在を意識させてきました。

入学して最初の方に同じクラス(だったと思うんだけど確証がない)の人に言われたことを今でも覚えています。

「家遠いって聞いたけどどこに住んでいるの」

「東京の杉並区,23区の一番西にあるとこで東京都全体から見ると真ん中ちょっと東ぐらいのとこ」

「えっ東京って23区以外の場所があるの」

なるほど,千葉の片田舎で生まれ育ち(いいすぎ)順当に千葉市内の中学校に進学した世間知らずの少年少女にとって東京とは「東京都」ではなく,「東京」という概念なのです。僕の知っているそれは彼らの頭の中には存在していないのです。

幸か不幸か,僕は多くの人が18あたりで獲得するであろう視点を齢12にして得ることができました。すなわち,生育環境によって常識というものが大きく異なり,そしてそうした違いのある人たちの間では,同じ言葉が決して同じ概念を意味しないのだという意識です。非常に貴重な経験だったと今でも思っています。

まあ,これが何かの役に立っているかというと,あまりないのですけれど。強いて言うなら周囲から変わっているとみなされている人(≒価値観が根本的に違っている人,だと個人的には思っています)や生育環境が完全に異なる人の話を他の人より素早く理解できることぐらいでしょうか。とはいえ共有するものが多い人とのコミュニケーションに比べるとコストは間違いなく増加しているので,あまり進んでやりたいわけでもないのですが。

(余談として:こうした差異を感じることは多々あり,昔の人が島流しに遭った気分というのはこのようなものだろうな,と当時12歳の少年は思い,絶対に脱出してやるという気持ちを強く固めたのでした)

 

転じて:内部と外部と

さて,話題を一歩進めてみると,僕の実体験である『「東京」という概念の獲得が東京の外に出たことによりなされた』という例のように,中にいることでかえって見えないものがある,という現象は数多くあるように思われます。もうちょっと一般化して整えておくと,内部の視点と外部の視点が断絶されているケース,ということですね。

先日大きな話題となった東京医大の入学試験における女子差別の一件。これに対する世間の反応(否定的)と現役医師の反応(決して肯定的ではないものの仕方ないとする見方も多い)の違いなどはその典型例です。

また,アメフトやレスリング,ボクシングなど数多くのスポーツで様々な問題が発覚しています。これらについても,組織内部の論理と外部の論理に断絶があることが原因であり,内部で評価される人柄や振る舞いが外部(≒世間一般)の規範に適合していなかった結果と言えるでしょう。

もう少し日常的な話をすれば,一般企業でも(特にITなどで)営業と技術者が対立してうんぬん,という話はしばしば見られます。これも技術を持った技術者,すなわち内部の視点と顧客目線に立った営業,すなわち外部の視点とがうまくすり合わせできていない,ということなのでしょう。

 

こうした問題を解決する上では,内部と外部の中間に立ち,両者の視点を持ち続けるとともに適切なコミュニケーションによってこの断絶を埋められる,そんな人材が非常に重要になってくると個人的には思っているのですが,残念ながら今の(日本の)社会ではこうした人物が適切に評価される土壌がないように思われます。

あるいは,そうした中間に立っている人物の多くが自分の利益のために適切なコミュニケーションを放棄しているというのが現状なのかもしれません。よくテレビ等に「学者」という肩書で出ている方々がいますが,彼らの一部には本物の専門家から見るととても正しいとは思えない,しかし世間一般には耳障りの良いことを並べ立てるばかりの人もいると聞きます。

(以下の事柄はツイッターの方にも似たようなことを書いたことがあるのですが)しばしば世間では人材に対してジェネラリストとスペシャリストといった区分けがなされます。個人的な経験では,これらの言葉を用いた議論については,『日本企業ではこれまで(主に文系学部卒から進む)総合職のジェネラリストばかりが優遇されていたが,本当に大事なのは(理系大学院卒などに代表される)専門職のスペシャリストだ』というような論調のものを見ることが多かったです。(こうした意見がかなり定着してきたのか,最近は大学の学部学科についても専門性を身につけられる医学部医学科や情報系学科の人気が高まっており,こうした向きが僕の周りでだけ発生していたわけではないという主張もさせてください,あと参考になりそうなURLもいくつか)

forbesjapan.com

type.jp

しかし,僕の意見としてはむしろ逆で,今足りていないのは良質なジェネラリストではないかと感じています。上に述べたような「内部の論理と外部の論理の差を埋める」ことを複数の分野について行い,その上で適切に意思決定を行うのがジェネラリストとしての仕事だと勝手に思っているのですが,世間一般でジェネラリストとされている人たちの多くは専門的な,内部の論理を理解・尊重することなしに,ただ外部の視点のみから意思決定を行ってしまっているのではないかと感じてしまうことが多々あり(だから海外資本に買われた途端に業績が回復しだしたり,えらい人が後先考えずいきなりサマータイムとか言い出してみたりするんじゃないかな),そういう『ジェネラリストの皮を被った素人みたいな人』(これは上に述べた『テレビによく出てる識者(笑)の人』とかもそうですね)を意思決定の場から排除して適切な人を据えることでかなり改善されるんじゃないかというのが僕の現時点での意見です。

 

結論

というわけで,いろんな事柄について内部としての視点と外部としての視点を両立させられる人というのは非常に貴重で需要も大きいと感じ,自分自身でそうなりたいなと思いました。この路線で進むとトンデモとか呼ばれる類の人種になってしまうリスクはそれなりに大きいのですが,そうならないようにしながらバランスを取っていきたいですね。

他の人から見るとぼくはおそらく多分野に浅く広く手を出しているように見え,何をやりたいのかわからないと感じる方も少なくないとは思うのですが,こんなことを考えながら生きているわけです。応援してください。

 

 

こんな感じで,キーワードとは全く異なるところに着地することの方が多くなる予定です&けっこう香ばしいこと書きまくる予定ですが許してください。初回だというのもありますが。