社会がにがて!

最近ブログを放置していました。忙しいからです。もうちょっと使っていこうとは思います。

 とりあえず,普段Twitterこれ)に書いているような社会に対する恨みつらみのようなものをこちらに退避させることにしました。Twitterでやっちゃうと同じ話題何回もつぶやくのでムダが多いし。あまり見ていて気分のいいものでもないと思うので「続きを読む」のとこに隠しました。

まあ,今回は割とライトというか社会じゃなくて自分の性格に対する純粋な疑問みたいな感じなので,別に大したことないとは思いますが。

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夏の作文その4『頭がいい』

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夏の作文週間はじめました - ALL FREE FALL

 

このブログを読んでいる方の多くは積極的に頭のよさで殴り合った経験があるかと思いますし,「頭がいい」と誰かから言われたことも数多くあるかと思いますが,その殴り合った「頭」や評価された「頭」とはいったいどのようなものでしたか。ほとんどの人にとって,評価軸となった「頭」はいつでも同じ意味での「頭」ではなかったと思います。

今回は人生がそのまま頭のよさでの殴り合い歴みたいなとこのあるぼくがさまざまな発達段階での「頭のよさ」をリストアップしていくので,みなさんは自分に合った頭のよさを適切に選択して自分の評価が最も高まるように価値観を形成してみてください。

(余談ですが,似たようなものに「優秀」「立派」「えらい」などの言葉があります)

生まれてから小学校の前半ぐらいまで

基本的にこの時期の頭のよさは「大抵の子供はもっと後に身につけるであろう知識や論理的思考力を身につけていること」です。早くはいはいができたり,ひらがなを覚えたり足し算ができるようになったりすると「頭がいい」わけです。

小学校の後半(・中学校)

このあたりから「頭のよさ」像が(評価する側,される側ともに)人によって分岐してくるように感じます。

従来のいかに早熟か,という軸に加えて,たとえば周囲に比べて落ち着きのある行動をしてはしゃぐ周りを諌めるような子供に対して「頭がいい」と言ってみたり,夏休みの宿題を早めに終わらせるなど,計画性のある子供に対して「頭がいい」と言ってみたり。

個人的にこの時期の「頭のよさ」像は徐々に社会性を身につけて団結しはじめ,また大人に反抗するようにもなってきた子供たちをに対して,学校の教員から見たときにどれほど管理しやすいか,という観点から決められているような気もします。

また,中学校がこちらのカテゴリーに入るべきなのか一つ後のカテゴリーに入るべきなのかは判然としません。都会か田舎か,公立か私立か,男子校女子校か共学か,などいろいろな要素が入り混じっているような気がします。

(中学校・)高校

このあたりから,個人の能力が従来までの「早熟」という「遅かれ早かれほとんどの人がたどり着く領域」を超え始めるので,早熟ということによる頭のよさは徐々に影響力を失っていくように思います。

さて,もちろんこの段階でも大半の人は勉強に苦労しますから,純粋な学力としての「頭のよさ」は評価の対象となります。

また,(これは本当に学校次第だと思いますが)「大人に評価される能力」としての「頭の良さ」が認知され始める時期でもあるように思います。実際には幼児のころから(ほとんどの人が無自覚とは思うものの)こうした能力に差はあるのですが。

あとは「面倒なことを簡単に済ませる能力」とか,「会話中にそれっぽいことを言う能力」とか。

さらに,僕の周りで実際に評価軸として存在していた「頭の良さ」として,「自分の限界を悟り,高望みしないこと」がありました。例としては「頑張れば東大を狙えないわけでもないぐらいの成績だけれど一橋を受ける」とか,「学年で成績が下から10番以内ぐらいのやつがセンターで8割取れさえすれば確実に受かる入試方式を利用して東京にある国立の工学部を狙う」とか。

 

大学

大学生の「頭のよさ」は本当に多岐に渡ります。純粋な勉強内容の理解度や学業成績という意味での「頭がいい」はもちろん存在していますし,もう一つは勉強にサークルにバイト,とマルチタスクを問題にならない範囲で手を抜きながらこなすという意味での「頭がいい」もあります。あとは将来につながることを意図して行動している人はやはり「頭がいい」と言われますね。他にも,喋っていて考えが深い(これも定義されていないような気はしますが)ように思える人について「頭がいい」と言ってみたり(この場合は実は考えていることそのものよりも考えていることを自信たっぷりに言い切ることが重要なファクターなのではないかと思っていますが),あと本当に単純にいわゆる高学歴の人のことを指して「頭がいい」と言うことも多いかもしれません(僕は大学入学後に東大の人が多いコミュニティ以外に属したことがほぼないのでよくわかりませんが)。

 

このあたりで最初に類型として挙げた「優秀」という言葉がいろんな文脈で使われるようになることにも触れておきましょう。

大学教員だったり大学院への進学を志している人だったりは学業成績の良い人を「優秀」と言いますし,サークルやバイト,学生団体における「優秀」は結局のところ,その組織へ強くコミットしている人のことを指しています。また,就活で出会う人の多くは,就活に成功する/した人を指して「優秀」と言っています。僕はほとんど関わっていないのでわかりませんが,例えば体育会の学生の間での「優秀」や,起業を志す学生間での「優秀」はまた違うのでしょう。全てのコミュニティで優秀と評価されている人というのはあまりおらず,評価軸のとり方次第でいくらでも変わってしまうという印象があります。今回テーマとした「頭がいい」はここまでの散らばりはないとは思いますが,それでも意図を明確にしておかないと問題が起きるかもしれません。

 

それ以降

変わるんだとは思うんだけど経験してないからわかんない!

 

野球選手の例

よく野球選手について「野球脳がある」「野球脳がない」と言ったりします。この野球脳とは,たとえば相手投手の配球を読んでみたり,ランナーやアウトカウントの状況に合わせてバッティングを変えてみたり,少しでも先の塁に行くための走塁意識であったり,そういったものを指します。(と思ってるんですけど,実際そんなに詳しくないから間違っていたら教えてください)これが世間一般で言うところの頭のよさとそんなに相関しない,むしろ野球ばかりやっていて一般には頭が悪いと思われているような選手が優れていたりするところが今回のポイントです。逆に,東大や京大出身の投手とかが案外ストレートゴリ押しの脳筋みたいなピッチングしたりしています。これは野球のプレイに求められる頭のよさがその場の判断に代表されるような即時的なものであるのに対して,東大や京大に行き,野球でも結果を残すような人の頭のよさが「勉強やトレーニングなどの長期的な計画を立てて実行する」ためのものであるからだと思われます。

まとめ

ここまで書いてきて感じたことをまとめると以下のようなことになります。文面だけ追ってしまうと相当飛躍してますけど,

 

「頭のよさ」は大別すると「成熟の早さ」「短期的な,その場で理解する・考えるタイプの頭のよさ」「長期的な,全体のバランスを考え,計画を立てて実行できる頭のよさ」の3つがあり,本来分けて考えられるべき。だが,頭のよさは学業成績を介した場合に最も頻繁に語られるという現実があり,しかも学業成績はこの3つが複合的に組み合わさった結果であるためにこの3つの境界は深く鑑みられることのないままに曖昧にされてしまっているのが現状。(成人以後に成熟の早さが問題になることはあまりないと思われるので,残りの)2つについて,自分がどちらに長けていてどちらに劣っているのかを知っておくべき。また,誰にとって「よい」のかについても考えなくてはならない。子供時代の多くのそれは親・教員の評価によるものであるのに対し,成長するに従って同級生などの似た立場の人間からの評価が占める割合が高まってくる。(もしかするとさらに年齢が上がると下からの評価がより重要になるのかもしれない)こうした相手について,自分にとっての優先順位がどうなっているのかを決めておかないと本当に評価されたい相手から評価されないという危険性があるから,こちらについても意識しておくべき。

余談:僕の「頭のよさ」についての自認

たぶん短期的な方はかなり優れている方だと思うんですが,長期的な頭の働かせ方がまるでできないので運良く偏執的に強い気持ちを持てたり周りが定期的に働きかけたりしてくれる状況下でないと大きな成功はできないなあと感じています。誰か助けてほしい。

 

 

夏の作文その3『読書の思い出』

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夏の作文週間はじめました - ALL FREE FALL

 

今回はまず,ぼくと読書全般の関係性について書き,そしてそこから現代社会への不安を書き散らします。後半だけ読んでもらった方がまとまってる気がする。

 

おもいでばなし

インターネットを見ていると,「親に読書週間がなければ子供が本を読むことはない」とか,「親の本棚で子供が育つ」とか,そういう言説をときどき見かけます。

ぼくは本を読みますが,ぼくの両親は本を読むタイプの人種ではありませんでした。よくよく考えてみると実家にもぼくの部屋以外は(専用の)本棚がありません。両親が本を読んでいるのは見たことがありませんから,ぼくも読書の習慣など身につかないはずでした。でも,そうならなかったのです。非常に運が良かったいくつかの流れがあるので説明させてください。

両親は漫画が好きで,幼稚園児のぼくを外食に連れ出してはその帰り道にあった書店やブックオフに連れて行ってくれました。幸運その1。

両親が行くのは漫画コーナーですから,ぼくも漫画を購入してもらいました。今でも覚えているのですが,最初の一冊は「スーパーマリオくん」の4巻でした(なぜこれだったのかというと,父親が夜な夜なスーパーマリオブラザーズ3に興じていたのをたまに見ていたぼくにとって最も身近な存在だったからだと思います)。

漫画というのは読めば読むほど次が,あるいは新しい作品が読みたくなるもので,両親もそれをわかっていたのでしょう,ぼくが欲しがった漫画は次々に購入してくれました。幸運その2。

買ってもらった2作品目は「ドラゴンボール」でした。確か通っていた幼稚園で流行していて,しかしぼくはそれを知らなかったので遊びに入れてもらえず母親に泣きついたところ一瞬で全巻揃ったという経緯だったと記憶しています。この作品のチョイスも絶妙で,子供ながらに名作というものはわかるのでしょう。夢中になって読み進めました。幸運その3。両親が暴力シーンに過剰反応するような性格でなかったことも幸いでした。幸運その4。

また,このころにテレビゲームに目覚め,ゲーム関係のコラムが大量に掲載されていた「Vジャンプ」を読み漁るようになりました。漫画と比べるとどうしても文字による説明の比率が高く長文に慣れたのと,やってもいないゲームに関する記事を読むため想像力が非常に鍛えられました。幸運その5。

そんなこんなで幼稚園を卒業し,小学校に入るとぼくは言いました。「小学生になったから小学一年生が読みたい」

実際にはこの「小学一年生」という雑誌は漫画雑誌として見ると子供だましの退屈な作品が多く,子供心に(面白くない……)と思いながらも自分から購読を願い出た手前,「つまらないからいらない」とは言えずにいました(なんだかんだで「小学二年生」の3月号まで2年間購読してしまったのですが)。そんな状態で唯一楽しかったのが巻末についていた保護者向けのページ。もちろんほとんど活字です。子育てのやり方などについても書いてあり,読みながら「なるほど今ぼくはこうやって育てられているのか」「ここのやり方はママやパパとは違うけれどどっちがいいんだろう,今度それとなく聞いてみよう」とか考えるようになっていました。幸運その6。

ところでぼくは幼稚園から小学校に上がるときに引っ越したのですが,引っ越すとほぼ同時に,通う小学校のすぐ近くに図書館ができました。幸運その7。ぼくは少なくとも低学年の間はその図書館に毎日のように通いました。友達がおらず,図書館ぐらいしか行くところがなかったので。幸運その8。

それだけでなく,その半年ぐらい後には最寄り駅だった荻窪に大型のブックオフができました。調べたところその店舗は元々は山一證券だったらしく,ちょうどぼくが小学一年生だった時に倒産してくれたためブックオフができたのです。幸運その9。以前同様に両親は何かで駅前に行くたびにぼくをそのブックオフに連れて行って大量の漫画を購入してくれましたし,ぼく自身も小学3年生ぐらいになると一人で立ち読みに行くようになりました。そう,その当時のブックオフは立ち読みを推奨してくれていたのです(今と違って)。幸運その10。

ですが,さすがに漫画ばかりを読んでいると飽きてしまいます。小学4年生になったぼくはとうとう漫画以外に手を出し始めます。はじめは児童書に毛が生えたようなやつを,次第に普通の文庫本へ。ブックオフ荻窪店は比較的大型の店だったため,漫画以外も充実していたのです。幸運その11。

これ以上書くと明らかに長すぎるのでこのへんで切りますが,こんな感じの幸運に支えられて本を読まない両親から本を(平均よりはかなり)読む人間が生まれたのです。ブックオフありがとう。

 

子供の(はじめての)読書体験を上質なものにしたいよねという話

そんなわけでブックオフに支えられてきた僕の読書週間なのですが,ここ数年ブックオフの業績は低迷しています。過去8年で300店舗が閉店したとか。これが時代の流れであることは疑いようがありません。今のこのネット配信でコンテンツがなんでも手に入る時代に漫画中心の古書店というスタイルを継続させようとすることは(ツタヤのようなレンタルビデオ店同様に)はっきり言って絶望的です。

それ自体はもうどうしようもないことと割り切ってはいるのですが,ちょっとだけ危惧しているのがその代替となっているであろうスマホ上の漫画アプリやネット上の記事の品質です。すでに多くの人が言っているテーマのような気はしますが。

かなり強い言葉で言ってしまえば,現代の子供が最初に出会う漫画や(大人が読むことを想定されている)活字というのは,無料配信されているものの確率が高いのではないか,そしてそれらには低質なものが多く,彼らの今後の本や活字との付き合いに悪影響をもたらさないか,ということです。

ぼくも漫画アプリやニュースサイトを利用しますが,ハッキリ言って駄作・駄文に出会うことは少なくありません。ある程度の量の良質なものに出会っていればそれらを切り捨てることは容易ですが,十分な経験がないままにそうしたものに出会ってしまうことは,読書全体をつまらないものと切り捨てることにつながるのではないかと心配しています。

ぼく自身の読書体験は,それがどんなジャンルであれ,早期に上質なものに出会えたことによって開かれたと感じています。もちろん僕の子供時代ですらそうした出会いは幸運の結果だと思いますが,現代の本・漫画・活字に関する流通の構造はそうした偶然の出会いすらひどく難しくしてしまっているのではないかとどうしても思ってしまいます。

もちろん,親がそれをコントロールできる人であれば心配はいりません。でも,そういう家庭ばかりではないはずです。最初にぼくの両親には読書週間がないと書きましたが,それでも両親はともに大卒の薬剤師で,学校教育を受ける機会も社会的地位も決して低くはない方です。それでもそうなってしまっているのです。親として,子供の読書経験を主導できるほど本に親しんでいる人がどれほどいるか,と考えてみるとやや絶望的な気持ちになってしまいます。

 

なんでこんなことを割と強い気持ちで書いてるんだろうな,と不思議になったのでちょっとだけ考えてみたところ,最近Twitterやってたりネット漁ってたりすると決まって出てくる(僕だけかも)「実際はかわいそうな状況下なのにキラキラ女子を装っている人の話を描いたらしい(見てないから知らない)漫画」の広告を見るたびにゲンナリした暗い気分になってしまい不快きわまりないので本当になんとかしてくれ,と感じていることが根底にあるのかなあ,という気がしてきました。それだけ。

夏の作文その2『一夏の思い出』

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夏の作文週間はじめました - ALL FREE FALL

 

2011年の夏のことです。

震災の直後で節電が叫ばれ,自販機は止まりエアコンすらロクにつかない,そんな環境下の駒場キャンパスで僕らは暮らしていました。

その時入っていたサークルは夏休みにやる作業の重要度が非常に高かったこともあり,ぼくも毎日とは行かないまでもそれなりにキャンパスプラザ(サークルが集まってる建物)にある社室を訪れていました。他の社員も誰かしらいて,社室のベランダで脱法ハーブをスパスパと吸って向こうの世界を訪問していたり,ヘルメットを被ってゲバ棒片手に歩き回っていたり。そんな中,社室で誰かが言いました。

「理想の教育棟の建設予定地に木を植えて邪魔しよう」(細かいニュアンスは異なっていると思います)

 

説明が長くテンポが悪くなりますが,「理想の教育棟」というのは東京大学駒場キャンパス内にある,今は「21 KOMCEE」と呼ばれているこの2つの建物が建築中だった2011年当時の呼び名です。

東京大学 [駒場キャンパスマップ(21 Komaba Center for Educational Excellence)]

もはや記憶も定かではありませんが,このうちWestの方は2012年には使用が開始されていたこともあり,すでに建物がほとんど完成していたのでしょう。なので,僕らが木を植えようとしたのは現在のEast側だということになります。

 

もちろん,白昼堂々そのような大それたことはできません。怪しいですからね。決行は深夜です。

夜中になるとどこからともなく人が集まり,土一面に大量の種を植えにかかりました。何の種だったかはもはや覚えていません。植えようとした土地は学生会館すぐ横の空間です。途中で警備員の方には事実上見つかっていましたがなんだかんだで捕まることもなく(今になって思うと捕まるようなことではないですよね,酒飲んでるわけでもないし)終わりました。本当にそれだけ。大したことはありません。

ご存知の通り,すでに木を植えた土地の上には立派な建物が立ってしまいました。結局あの種が芽を出すことはなかったのです。僕らのちょっとした悪事は完全に失敗に終わっていました。確かこのことは(サークルが発行する雑誌の)記事にもなっていませんから,それを知る人すらわずかに数人です。その時の数人ともまったく連絡をとっていませんし,それどころか顔も名前も忘れかけています。あの夜の行為に意味があったとはとても思えません。それでも,いやそれだからこそ僕にとっての夏の思い出として,これ以上のものは思いつかないのです。

ふとしたきっかけで再び2年間の駒場暮らしをすることになり,あの土地の上に立った立派な建物を見るたびにあの日のことやその周辺に起きた色々などを思い出していました。そうした懐かしさに塗り固められた駒場での暮らしももはや終わり,もう二度と僕は駒場を訪れることはないかもしれませんが,それでも,あの瞬間のあの光景を僕は一生脳裏に焼き付けながら生きていくのでしょう。

夏の作文その1『東京』

とっかかり:東京という概念

東京には色々な人がいます。東京で生まれ育った人,育つ途中で東京に来た人,育ってから東京に来た人,一時的に滞在しているだけの人,そして出ていく人。僕は「東京で生まれ育った人」に分類されることになるはずです。

このカテゴリーの人間は,おそらく「東京」と聞いても特段のイメージを想起することはありません。あるいは東京駅,あるいは東京都庁のことをイメージするかもしれませんが,東京に暮らしていない人や大学進学や就職を機に東京に出てきた人の持つ「東京」というイメージを共有できていないという確信はあります。

僕自身が東京というふわっとした存在を認識したのは中学に入学した直後でした。中学受験のやらかしにより千葉県,それも千葉市の中学校に片道100分かけて通うことになってしまったのです。最寄り駅駅前の地方都市感あふれる構造やそもそも異様に長い通学時間は否が応でも僕に東京という存在を意識させてきました。

入学して最初の方に同じクラス(だったと思うんだけど確証がない)の人に言われたことを今でも覚えています。

「家遠いって聞いたけどどこに住んでいるの」

「東京の杉並区,23区の一番西にあるとこで東京都全体から見ると真ん中ちょっと東ぐらいのとこ」

「えっ東京って23区以外の場所があるの」

なるほど,千葉の片田舎で生まれ育ち(いいすぎ)順当に千葉市内の中学校に進学した世間知らずの少年少女にとって東京とは「東京都」ではなく,「東京」という概念なのです。僕の知っているそれは彼らの頭の中には存在していないのです。

幸か不幸か,僕は多くの人が18あたりで獲得するであろう視点を齢12にして得ることができました。すなわち,生育環境によって常識というものが大きく異なり,そしてそうした違いのある人たちの間では,同じ言葉が決して同じ概念を意味しないのだという意識です。非常に貴重な経験だったと今でも思っています。

まあ,これが何かの役に立っているかというと,あまりないのですけれど。強いて言うなら周囲から変わっているとみなされている人(≒価値観が根本的に違っている人,だと個人的には思っています)や生育環境が完全に異なる人の話を他の人より素早く理解できることぐらいでしょうか。とはいえ共有するものが多い人とのコミュニケーションに比べるとコストは間違いなく増加しているので,あまり進んでやりたいわけでもないのですが。

(余談として:こうした差異を感じることは多々あり,昔の人が島流しに遭った気分というのはこのようなものだろうな,と当時12歳の少年は思い,絶対に脱出してやるという気持ちを強く固めたのでした)

 

転じて:内部と外部と

さて,話題を一歩進めてみると,僕の実体験である『「東京」という概念の獲得が東京の外に出たことによりなされた』という例のように,中にいることでかえって見えないものがある,という現象は数多くあるように思われます。もうちょっと一般化して整えておくと,内部の視点と外部の視点が断絶されているケース,ということですね。

先日大きな話題となった東京医大の入学試験における女子差別の一件。これに対する世間の反応(否定的)と現役医師の反応(決して肯定的ではないものの仕方ないとする見方も多い)の違いなどはその典型例です。

また,アメフトやレスリング,ボクシングなど数多くのスポーツで様々な問題が発覚しています。これらについても,組織内部の論理と外部の論理に断絶があることが原因であり,内部で評価される人柄や振る舞いが外部(≒世間一般)の規範に適合していなかった結果と言えるでしょう。

もう少し日常的な話をすれば,一般企業でも(特にITなどで)営業と技術者が対立してうんぬん,という話はしばしば見られます。これも技術を持った技術者,すなわち内部の視点と顧客目線に立った営業,すなわち外部の視点とがうまくすり合わせできていない,ということなのでしょう。

 

こうした問題を解決する上では,内部と外部の中間に立ち,両者の視点を持ち続けるとともに適切なコミュニケーションによってこの断絶を埋められる,そんな人材が非常に重要になってくると個人的には思っているのですが,残念ながら今の(日本の)社会ではこうした人物が適切に評価される土壌がないように思われます。

あるいは,そうした中間に立っている人物の多くが自分の利益のために適切なコミュニケーションを放棄しているというのが現状なのかもしれません。よくテレビ等に「学者」という肩書で出ている方々がいますが,彼らの一部には本物の専門家から見るととても正しいとは思えない,しかし世間一般には耳障りの良いことを並べ立てるばかりの人もいると聞きます。

(以下の事柄はツイッターの方にも似たようなことを書いたことがあるのですが)しばしば世間では人材に対してジェネラリストとスペシャリストといった区分けがなされます。個人的な経験では,これらの言葉を用いた議論については,『日本企業ではこれまで(主に文系学部卒から進む)総合職のジェネラリストばかりが優遇されていたが,本当に大事なのは(理系大学院卒などに代表される)専門職のスペシャリストだ』というような論調のものを見ることが多かったです。(こうした意見がかなり定着してきたのか,最近は大学の学部学科についても専門性を身につけられる医学部医学科や情報系学科の人気が高まっており,こうした向きが僕の周りでだけ発生していたわけではないという主張もさせてください,あと参考になりそうなURLもいくつか)

forbesjapan.com

type.jp

しかし,僕の意見としてはむしろ逆で,今足りていないのは良質なジェネラリストではないかと感じています。上に述べたような「内部の論理と外部の論理の差を埋める」ことを複数の分野について行い,その上で適切に意思決定を行うのがジェネラリストとしての仕事だと勝手に思っているのですが,世間一般でジェネラリストとされている人たちの多くは専門的な,内部の論理を理解・尊重することなしに,ただ外部の視点のみから意思決定を行ってしまっているのではないかと感じてしまうことが多々あり(だから海外資本に買われた途端に業績が回復しだしたり,えらい人が後先考えずいきなりサマータイムとか言い出してみたりするんじゃないかな),そういう『ジェネラリストの皮を被った素人みたいな人』(これは上に述べた『テレビによく出てる識者(笑)の人』とかもそうですね)を意思決定の場から排除して適切な人を据えることでかなり改善されるんじゃないかというのが僕の現時点での意見です。

 

結論

というわけで,いろんな事柄について内部としての視点と外部としての視点を両立させられる人というのは非常に貴重で需要も大きいと感じ,自分自身でそうなりたいなと思いました。この路線で進むとトンデモとか呼ばれる類の人種になってしまうリスクはそれなりに大きいのですが,そうならないようにしながらバランスを取っていきたいですね。

他の人から見るとぼくはおそらく多分野に浅く広く手を出しているように見え,何をやりたいのかわからないと感じる方も少なくないとは思うのですが,こんなことを考えながら生きているわけです。応援してください。

 

 

こんな感じで,キーワードとは全く異なるところに着地することの方が多くなる予定です&けっこう香ばしいこと書きまくる予定ですが許してください。初回だというのもありますが。

 

夏の作文週間はじめました

簡単に言うと夏休みヒマなので一日に(最低)ひとつお題に沿った作文を書いてみようという需要のない話。

「やはりインプットだけでなくアウトプットしないとダメだなあ」という問題意識を最近特に持ち続けていて,さらに夏休みの特にお盆休みの間は学校もアルバイトもなくそして友達もいないので(これはちょっとウソ),このあり余る時間を有効に活用しようとしたらこうなりました。

ただ何も縛りをつけないと読者層的にどうせ受験とかそういう話ばかりになってしまうことは明白なので,中・高・大・院の受験と就活に関する話は基本的にやらないことにします。

最初のお題はTwitterで募集したのですが,4つほど寄せられました。これ以降はこの記事やら実際に書いたものの記事にコメントをいただければ(倫理的に問題のあるもの・具体的すぎて書きようのないもの等を除き)一覧に掲載します。ただ,優先度はこちらで勝手に決めさせてください。

 

一応ここの記事内に作ったものと集まっているお題の一覧を掲載しておきます。

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近況報告&最近のおすすめ文房具

あまり更新する機会がないのでGWぐらいは。

とりあえず最近の近況報告をします。

 

ジムに通い始めました

ダイエットをしようと思いました。

具体的には「エニタイムフィットネス」というところと契約しました。

ここにはプールやスタジオレッスンがないかわりに24時間営業かつ安価で全国のジムを利用できるという特徴があり,例えばぼくはいつもは本郷三丁目近くに通っていますが,先日は秋葉原ヨドバシカメラに行った帰りに秋葉原のジムに行ったり,実家に帰ったついでに荻窪のジムに行ったりしました。あとは例えば名古屋や京都,福岡などに旅行に行ったときの空き時間にその地方のジムを使うこともできます(先日旅行したときにもそれを考えたのですが,入会から1ヶ月以内は契約したメインのところ以外に行けないことになっているのでダメでした)。

とはいえ基本的にはiPadで動画(後述)見ながらエアロバイクを1時間ちょっとこいで500〜600kcal消費してるだけなのですが。Wi-Fi完備なのが非常に助かりますね。

テレビにちょっとだけ出させていただきました

出ました。てっきり再受験の方をいじられるのかと思っていたら文房具大好きなことをいじられました。それだけ。そんなに文句もないのですが,狂った人を集めるというコンセプトのようで控え室は怖かったです。次回も声がかかったらぜひ参加したいですね。

正式に医学部に進学しました

無事に3年生になりました。毎日解剖ばかりしています。将来の見通しとしては基本的に精神科,もしかしたら眼科か皮膚科か美容整形外科,という感じなので顔面と脳以外はそんなにやる気はないです……。

ともかく,進級できるようにがんばります。

法律の勉強を始めました

法律の勉強というか,つまるところ予備試験→司法試験のルートに乗ってみようかなあ,ということなのですが。

いろいろあって法律に詳しくなることの必要性を痛感したことと,せっかく長いこと学生をやるんだからいろいろ身につけたいよね,という安易な発想によって決意。

具体的には「アガルート」というところの映像講座に課金することにしました。

司法試験予備校の(とくに基礎講座の)シェアは伊藤塾が一位であることは知っていましたが,さすがに値段設定が高いことと,現在の講師の方々は旧司法試験を通った人がほとんどであり今の試験に対応してんのかな,ということがネックでした……とくに前者。後者はほとんど心配はしていないのですが,そうは言ってもちょっと不安ではあります。例えば僕がわりと詳しい大学受験数学の話に寄せるなら,今の課程では普通に入ってきてる条件付き確率や統計,複素数平面なんかを旧課程の人たちは受験としては経験していないわけで,そりゃまあ一通り学習して対応してはいるだろうけど,必死さをもって受験に出ていた人たちと同レベルにまで鍛えることができているかというとちょっとわからないですよね,多分そうなっていない人もいることでしょう,そういう種類の不安です。

アガルートは値段設定が非常に(というわけでもないけど)安く,しかも予備試験用の講座を受講して受かると司法試験用の講座がタダになったりと金銭で釣ってくる姿勢が非常に気に入ったのと,講座を担当する講師の方が新司法試験を突破している若い先生であることもプラス要素だと感じました。

また,個別の相談会に参加したところ,アガルート全体の学習に対する考え方(例えば,まずよくわからなくてもいいから一周する,という方針とか)が僕が自分自身の勉強を通じて得た考えや塾講師として勉強を教える中で得た考えと非常に似通っていたことも大きな理由の1つです,というか多分それが一番大きいです。

勉強が進んできたら意見が変わることもあるかもしれませんが,今のところ非常に満足しています。ジムでエアロバイクこぎながらiPadで動画見まくってます。Split ViewでPDFのページと動画ページ2分割すると非常にはかどります。

 

近況報告終わり。次におすすめ文房具コーナー(ひっそりと需要があるらしい)。

 

最近のおすすめ文房具

カクノ+コンバーター+極黒 

パイロット コンバーター CON-70 プッシュ式

パイロット コンバーター CON-70 プッシュ式

 

 司法試験では万年筆を使う人が多いらしいです……ということで,最近ちょっとだけ万年筆に凝っています。

とはいえ,低価格帯では圧倒的に売れ筋であろうパイロットの「カクノ」という万年筆が一番のおすすめになるあたり(というか明確なおすすめを1つに絞れちゃうあたり)そんなに詳しくないです。

カクノ自体は非常に優れた万年筆なのですが,使いたいインクの種類をパイロットが用意していないことが問題となりました。*1

パイロットは筆記具メーカーとしては三菱鉛筆と並んで規模の大きい企業で,特にアメリカを初めとした世界各国での存在感も非常に大きい素晴らしい企業です。リフィルを選ぶタイプの多色ゲルインクボールペンとしては業界初であるハイテックCコレトや,売れまくってもはや説明の必要がない消せるボールペンのフリクションを売り出すなど非常に開発力が高いのですが,万年筆の顔料インクについては今のところ売り出してくれていません(ゲルインクボールペンではこれまでずっと染料インクだったのがここ数年で顔料インクの「ジュース」「ジュースアップ」を売り出すなどしているので,万年筆用の顔料インクについても開発中だと思いたいところです)。僕はこの顔料インクが使いたくてどうしようもなかったのです(顔料と染料の違いはググってください)。

そして,万年筆用の顔料インクとして最もメジャーなのはセーラーの「極黒」「青墨」です。極黒がブラックで青墨がブルーブラックですね。このインクをどうしても使いたかった。

そういう「他社のインクを使いたい」または「万年筆の使用頻度が非常に高いため,カートリッジではコストパフォーマンスが悪い」場合に使うのが,カートリッジ式の万年筆を吸入式(インクをペン先から吸って内部に保持しておくタイプ)に変えてくれるコンバーターというもので,これを万年筆に付けることでいわゆるインク瓶を使えるようになるわけです。

なんか説明めんどくさくなってきたので省略しますが,そうしました。

パイロットからはコンバーターがCON-40とCON-70の二種類出ておりカクノにはCON-40が推奨されていますが,実際のところCON-70でも何の問題もなく使えますし何より一度に吸入できるインクの量が見た目でもう全然違うのでCON-70をおすすめしておきます。

 

で,結果としては「カクノの1000円とは思えない書き味」「CON-70の潤沢なインク吸入量」「顔料インクである極黒特有の非常に濃い筆跡(しかも耐水)」を兼ね備えたモンスターが生まれてくれました。やったね。

あと書ける字の太さとしてはF(細字)がゲルインクの0.5から0.4,M(中字)がゲルインクの0.7から0.5という感じです(万年筆は筆圧や傾け方で筆跡の太さが大きく変わります) 。EF(極細)は試していません。

フリクションボール4 

消せるボールペンですが色が薄いのがあまり好きでなく,これまでメインとしてはあまり使っていませんでした ……が,ちょっとした書き込みに(1)色分けでき(2)消せるという2つの要素が非常に便利だったため今では愛用しています。

シャチハタ的なスタンプ

 塾のバイトで宿題を確認したときなどに押しています。ラクです。

フランクリンプランナー&EDCのバイブルサイズ保存用ファイル

 今年度から手帳としてフランクリンプランナーを使っているのですが,このノート用リフィルの紙質が素晴らしくメモ・ノートとしても活用しています。でも,それならノートとして使う専門の2冊目が欲しいところです……。ここで問題が発生しました。フランクリンプランナーはリフィルのサイズが完全な独自規格(サイズとしてはB6に近いのですが)であるため,それ用のファイルが専用のもの以外には存在しないのです!

フランクリンプランナーの手帳本体はいずれも非常に高価&重い&仰々しいのでノート用に2つ持つのはちょっとなあ,というのがあり,かと言って保存用の安価なものは大きすぎて持ち歩くのにあまりに不便でした。困ってしまいました。

フランクリンプランナー のコンパクトサイズ(ぼくが使っているもの)のリフィルについては,紙の縦幅および穴の数や間隔についてはいわゆるバイブルサイズのシステム手帳リフィルとまったく同じで横幅だけが異なる(バイブルサイズよりもかなり広い)という事実があります。*2

そこで,バイブルサイズの保存用プラスチック製バインダーの中に横幅が広くフランクリンプランナーのリフィルを入れても横がはみ出さないものがないか?と考えました。すると,エトランジェ・ディ・コスタリカ(海外メーカーと見せかけて本社は広島)のものだけが明らかに横幅が広いのです!実際,リフィルを当ててみても何の問題もなく使えそうです。しかも定価で500円(税抜)と非常に安価です。フランクリンプランナーの専用バインダーは一番安いものでも革張りで,定価は5800円です。いくら僕が文房具好きでもさすがにそこまでしたくありません,というか勉強用のノートに厚い革表紙のものを使うのは嫌です。開きづらいし。*3

 

そんな感じです。今年度も適度or過度にいろいろなものに手を出しつつ楽しんでいきたいと思っています。

 

*1:(昔は違ったと思いますが)現在では一般的に万年筆というのは各社が売っているカートリッジを差し込んで使うカートリッジ式になっています。このカートリッジは各社で互換性がないので,基本的にA社の万年筆にはA社のカートリッジしか使えない,という状態になっているのです。

*2:このバイブルサイズのものは一般に広く流通している規格で,様々な会社が製品を出しています。

*3:なお、実際には横幅が広いものを一から探したというよりは初めからEDCのやつが第一候補としてあり、念のためそれに匹敵する幅広のものがないかも探したものの見つからず、という流れでした。過去にバイブルサイズのシステム手帳を使っていた時期に保存用バインダーを検討し、その際「こいつ横幅ありすぎだろ却下!」となったことを覚えていたのです。